字幕版の公開劇場が少ない

ディズニーやピクサー、イルミネーションなどの子供向け映画は、英語音声(字幕あり)で上映する劇場が限られている。
特に地方ではその傾向が顕著で、実際に観たくても字幕版の上映に出会える機会は驚くほど少ない。

私が暮らす岡山県倉敷市では、アニメーション映画の字幕版上映はほぼ行われていない。
ディズニー実写版では字幕上映がある一方、アニメはほぼ吹替版のみだ。今回の「星つなぎのエリオ」も、その例外ではなかった。

今回はたまたま上映開始の週に、フィリピン帰省から帰国した彼氏を新大阪まで車で迎えに来ていた。翌日には神戸須磨シーワールドに行く予定だったので、神戸あたりでエリオを鑑賞することにした。

幸いにもOSシネマズミント神戸で、ちょうど21:15開始の回を観られた。

ずっと前からグローバル化が進み、小学校でも日本の英語教育が義務化されている。にもかかわらず、子供向け映画の多くが吹替版のみの上映に限られているのは、どうにも理解しがたい。まるで「いつまで経っても話せるようにならない英語教育業者」が大きな力を働かせているかのようだ。

もし自分に子どもがいたとしたら、日本語に吹き替えられた映画はなるべく観せないだろう。こだわりが強いかもしれないが、映像に限らずどんな作品も、作られた言語で楽しむのが一番だ。もちろん日本語で作られた作品は日本語で楽しめばいい。

オマージュがわからなくて悔しい

やっと映画エリオの話に入る。簡単にいえば「子供向けファーストコンタクトSF」だ。

両親がおらず叔母と2人で暮らすエリオ。宇宙関連企業(政府関連?)で働く叔母の職場で地球外生命体(エイリアン)の存在を信じるようになり、エイリアンと会うために全力を尽くしている。

その結果まわりからも変なやつだと思われ、叔母からもいつも独りでいることを心配される…。

こんな感じの始まりで、その後エリオはファーストコンタクトを果たし、ポジティブな宇宙連合(?)のコミュニバースに迎え入れられようと努力するというストーリーだ。

映画を観ていると、有名SF映画へのオマージュと思われる場面がいくつもあった。
たとえば、宇宙船の光に包まれて迎え入れられるエリオ。友達になったグロードンが成人の儀式に挑む姿。侵入作戦で、エリオのクローンが囮になるシーン…。
どこかで観たことがあるのに、どの作品だったのか思い出せないのがもどかしい。

たぶん「エイリアン」とか「スティーブン・キング」や「スティーブン・スピルバーグ」関連の作品な気がする。

自分は2000年代から映画を観るのが好きになり、それ以前の作品をあまり観ていない。現代人の良くないところだとわかっているが、昔の映画のクオリティや冗長的なシーンが多く、個人的に観るのが辛い。このせいで名作と評価されている映画を観ていないので、映画の教養がないことを自覚している。

30代後半でまだまだエンタメを楽しむ時間があるのだから、過去の名作をしっかり履修し映画の教養を身につけておきたいとは思うものの、なかなか行動に移せていない。

世界は広い。それでも自分の居場所はいつもそこにある。

ネタバレ注意

この先は本編のネタバレを含みます

エリオは両親を失い家庭での居場所を失った。学校に行っている描写はないが、きっとそこにも居場所がないのだろう。叔母に無理やり入れられたボーイスカウト(サマーキャンプ?)でも因縁を付けられ居場所がないと感じてしまう。

学校やボーイスカウトでも居場所がないと感じていたエリオは、そんなときコミュニバースに地球代表として迎え入れられるチャンスを得て、エリオは嘘をついてでも自分の居場所を見出そうとする。

いろいろあってその嘘すらも超えた優しさと勇気をみんなに見せつけ、ついにコミュニバースにも自分の居場所ができる…。

しかしエリオは地球に残ることを決意し、そこに居場所を見つけるのだった。

エリオは自分の家族、学校、ボーイスカウトの中では居場所は見つけられなかった。 しかし一旦自分の居た場所を離れ、広い世界に出て外から元いた場所を眺めてみると、まったく違う自分になれたのだと思う。
気づいていなかっただけで、そこにも愛してくれる人や、共に時間を過ごしたいと思ってくれる人は確かに居たのだ。

エリオの体験は、自分のこれまでの経験と重なる部分がある。

自分自身も京都の太秦という場所に生まれ、西大路駅の近くにある工業高校、円町にある会社、宇治の彼女の家と少しずつ見える景色が広がっていった。それでも会社をやめ、フィリピン留学に行き、オーストラリアにワーホリに行ってからは、改めて京都(日本)の良さをほんとうの意味で理解できたし、もっと知ろうと思うきっかけになった。

大人になった今だからこそ思うが、子供の時に、『家庭』と『学校』に加えて、もう1つか2つ自分の居場所があれば、若い頃から広い視野を持てていたのだろう。

とはいえ、広い視野を持つことが必ずしも全ての人にとっての幸せとは限らない。

いわゆる「地元大好きヤンキー」みたいな人には、昔からずーっと大切に思っている人を大切にし続ける、という幸せが確かにある。

それは連絡先やSNSなどの友達関係を定期的にリセットしたくなる自分には、とてもうらやましいタイプの幸せのカタチだったりする。

エリオが見つけた居場所も、自分が海外から帰って再発見した京都も、本質は同じだと思う。結局、世界のどこにいても、誰と過ごすかがその場所を居場所に変えるのだ。